2015年9月24日

“常時つながる”時代こその『孤独力』と心得る

伝版®開発の背景:楽しく楽(ラク)に!

季節すすむ、一心寺の桜。
仁王様のお顔を向うに。
シルバーウィークも過ぎ、ぐっと秋が深まる頃です。芽吹きの春を越えて夏には緑陰に涼を得るほどに葉を茂らせた木々たちも、この時期は変化の前にふと、歩みを止めて佇んでいるように見えます。しかし止まるはほんのひととき。次第に色づき、落葉の季節へと、確実に時は過ぎていきます。
 
そんな移り変わりを愛でようと、仲良しの二人が野山に出かけたとしましょう。二人は、同じ紅葉を目にし、同じ道を歩きました。 しかし、のちにそれぞれの経験を語れば、 心に感じたことや考えたことはもとより、時に、目にしたものさえ違っており、共に歩いたはずの体験も、その解釈や意味づけも、必ずしも一致しないことを知るでしょう。

人は誰しも、自分が経験し、意味づけした固有の世界に生きており、その世界は「自分たったひとりのものであり、他者と何らかの共通部分を見出すことはできたとしても、全体としては誰とも同一のものにならない」からこその現象です。

◆コミュニケーションとは「孤独」な間柄をつなぐもの
そう考えていくと、人生とは「常に唯一無二である経験」の生成する層を累々と積み重ねていく経過であると気づかされます。すべてが唯一無二であるとすれば、“個々人”の人生は本来的に「孤独」な性質を持つと言えるでしょう。そして「孤独」な“個々人”が形成する“集団”という存在は、あらゆる構成要素が唯一無二であるがゆえ、本質的に「多様性」を有することになります。

『社会的な存在』である人間は「孤独」を抱えて独りで生きていくことができないからこそ、「孤独」な存在が集まる状況の中で、自分とは異なる別の「孤独」な他者に『好奇心』を抱く。そして「孤独」な間柄をつなぐ『コミュニケーション』を必然として行い、情報をやりとりし“共に生きるための土壌”を作り続ける。-こうしたことが、生存のための前提として予めプログラムされているのではないかと私は仮説的に考えています。

この仮説がある程度正しいとすれば、インターネットで世界中の情報が得られ、SNSで多くの他者と常時つながる状態を確保できる時代の到来は、『コミュニケーション』渇望する「孤独」な存在=我々には、まさに人類史上の革命でしょう。「つながる」ことの素晴らしさを無制限に享受できる環境に置かれているのですから。

◆「つながる」ゆえの「ウロウロ」も
ところで物事には、必ず両面があるもの。人々の反応をみていると“常時つながる状態を確保できる”状況は必ずしもすべての人の心の平安を約束するものではないようです。依存的な接触には副作用があり、膨大かつ多様で刺激に溢れた情報に制限なく接触した結果、それがその人のプラスになっていない現状がときにあります。

とめどなく更新される他者からの情報に自らを曝した結果、自分は時代遅れで役に立たないのではという恐れ、『コミュニケーション』の輪にうまく入れないと感じ、仲間外れにされているのではないかという心配、数多くの仕事や旅行・人との出会いをフォーカスしたエントリーを見て思わず他人をうらやむ心情等々。“共に生きるための土壌”づくりにつながっているというより、むしろ、無性に気持ちが「ウロウロ」してしまうことに悩む人も少なくないようです。

ちなみに、「ウロウロする」の「ウロ」の原義は仏教用語の「有漏」。煩悩や欲望を持っていることを指します。「ウロウロ」はまさに重なる煩悩や欲望にとらわれ、心が定まらない状態と言えます。

◆"犀の角のようにただ独り歩め" -『ブッダのことば スッタニパータ』
楽伝の“黄色い家”にも犀が!
実は「カリンバ」というアフリカの楽器。
なんとも心地よい音で、よく誰かの膝上に。
ブッダが存在したといわれる今から約2500年前。インドの森の中にはインド犀(サイ)が数多く闊歩していたそうです。インド犀の角は1本で、意外なことにその中身はぶよぶよとした肉で戦いにはあまり役に立たないとか。しかし、森の中でインド犀に実際に遭遇したならば、屹立する「角」は立派で、それを支える「体」も大きく、相対した相手は思わず距離を取ってしまう。この在り様ゆえインド犀は、他の生き物から襲われることがほとんどなく、他の生き物と共生する森の中で“常に自分の歩みを続けていられる”のだ、ということにブッダは心動かされたと伝えられています。

「犀の角」は、人間でいうならば何でしょうか?  ブッダを差し置き甚だ恐縮ですが、乱暴に解釈させていただくと「犀の角」は、唯一無二である自身のよりどころとなる「自分固有の軸」のようなものかと思います。そして「角」を支える「犀の体」は、その「軸」を支え、体現し、自らを「自分」たらしめていくための「基盤」でしょうか。           自分の歩みを続けていく(=人生をひらく)には、自らの「軸」を育み「基盤」を養うことが必要なようです。

そこで大事となるのが「自分に向き合う時間」をもつこと。向き合う時間を自らに課し、折に触れて自分の「軸」を更新し、支える「基盤」を確認できる力 ― それはある種の「能力」であり、  『孤独力』とでも呼べるものでしょう。“常時他者とつながる”時代に「ウロウロに悩む」を回避するには『孤独力(=自分に向き合う力)』の体得が第一歩です。

◆『向き合う』は“面倒で辛い”?
しかし、この『孤独力』を育むという作業にはそれなりのコツが必要なようです。「自分に向き合う」こと自体がストレスだと逃げてしまっている人も少なくないのかもしれません。

考えてみれば、ふだん我々がつい頼ってしまう、いわゆる“ストレス解消”のためと称される“モノやサービス”の多くは、「自分自身に向き合う」といった作業よりも、むしろ自分以外のものに一定時間注意をそらすことでストレスを忘れさせるという仕組みでもたらされるものがほとんどです。つまりストレスそのものを「解消」するのではなく、「一時的に忘却」させるわけですね。煩悩満載でお酒が好きな私はそういうストレス「瞬間忘却」方法を否定はしませんが、それだけでは流石にダメだろうと思うわけです(笑)。

“自分に向き合う作業が欠かせないということは、これほど力説されなくても重々承知している!”はい、多くの方がそうでありましょう。しかし問題は、その作業を、ことのほか“面倒で辛い”と感じる人が多いことなのです。だからつい避けてしまう。かくいう私もそうです。

◆“楽しく楽(ラク)に”『孤独力』を育むには?
煩悩満載で辛いことを避けたい怠惰な私でも“楽しく楽(ラク)に”自分に向き合える方法はないのだろうか?私のこんな勝手な思いが「伝版®開発の動機につながりました。ちょっとした楽しさと機能性を備えた「伝版®に向き合う時間を確保することにより、自分に向き合う時間が無理なく確保できる。ブッダの修行のような効果は約束できませんが、少なくとも修行よりずっと敷居が低いこと―そこが肝心(!)と信じています。昨年開催された日本心理学会第78回大会(於 同志社大学)でもご報告したように“自分に向き合うことに役立つ”と評価してくださっているユーザーさんが数多くおられます。

◆自分と向き合う時間の豊穣
これまで人類が経験したことのない質・量の情報や地理的制限を超えた人とのつながりを、うまく生かすことで自分の人生を豊かにすることも可能な時代に我々は生きています。可能にするためにまず何が必要か? ー 自分の「軸」をしっかり定めることを“習慣”とすることでしょう。「軸」は時代と共に変化してもいいけれど、その時の自分の「軸」を確認し、常に意識して行動すること。変化に対しては柔軟であるよう心がけるが、ウロウロしすぎないように自分をコントロールすること。

こうしたことができる「私」であるために、「唯一無二である自分に向き合う時間」を確保し、自らの経験に固有の意味を与える作業をしながら、「軸」を丁寧に育て、「軸」を支える自分の在り様を大切に歩みを進める。そんな作業を『孤独力』をもって続けることに「伝版®が役立てば本当にうれしいと思っています。

理事長 西道広美 拝

*次回は、名古屋で開催された日本心理学会大79回大会からのご報告です。いずれ別の機会に、煩悩満載でありながら『孤独力』を高めるべく、『伝版®ダイアリー』というツールを使って自分に向き合ってきた楽伝メンバーの赤裸々な事例もご紹介していきたいと思います。

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